「Majestic horse」

Zero(ぜろ)

当時30歳前半であった雄一郎は佐賀で持ち帰り弁当チェーン3店舗の店長をしていた。多忙で過酷な環境の中での仕事は雄一郎の身体を蝕み、仕事中に鍋を振りながら倒れた。急性腹膜炎であった。1ヶ月後には復職したものの体力が戻らずそのまま退職。新しく見つけた仕事も交通事故によって起こったムチ打ちにより出来なくなり鬱病を発症した。雄一郎が40を過ぎた頃の話である。

50歳の時、鬱病の治療のために心療内科ののデイケアサービスに通っていた雄一郎だったが病院に通っている他の人達の雰囲気の暗さに嫌気がさし、何かできる作業は無いものかと探したが、あまりめぼしい物が無かった。そんな時、自宅にいた雄一郎が何の気無しに付けていたテレビ。そこに映った針金の鳥に彼の心は掴まれた。飛翔する鳥を正に齧り付いて見ていた。これが彼の針金アートのルーツとなった。

すぐにペンチと針金を買いに行きテレビで見た鳥を記憶を頼りに一週間ほどで再現した。それは独学で制作したものとは思えず、羽ばたく針金の鳥は今にも飛び立っていきそうなほど勢いに溢れていた。ここから雄一郎のアーティストとしての人生が始まっていく。

それからも精力的に活動を続け、かなりの数の作品を制作している。雄一郎はその全てを独学で作り、設計図なども用いない。作るものの立体映像が頭の中に浮かびフリーハンドで針金を曲げて形を作っていく。同じモチーフのものでも大きさや模様が違いそれもまた作品にリアリティを与えている。最近ではコロナの影響からSNSや世間が暗くなっており、見た人が元気になったり笑えるような作品を作りたいと考えている。そのため作品を作る時に自らの気を込めて弱っている人達に与えたりタマゴを使ったユーモアのある作品などを意欲的に制作している。

調査中も穏和な微笑みで質問に答えていた雄一郎だったが、ワイヤーアートに対する情熱をひしひしと感じた。ワイヤーアートで革命を、ワイヤーアートの認識を変える等そのバイタリティは作品にも浮き出て私達の心をこれからも離さないのだろう。(文・山田寛太)